制限なし

【優秀賞】『呼ばれて行く国インド』

ドキュメンタリー映画感想文コンクール
【優秀賞】(学生の部)


『呼ばれて行く国インド』 
神田外語大学3年 鈴木 笙太

視聴作品「呼ばれて行く国インド」
https://asiandocs.co.jp/con/40?from_category_id=5




元々、インドという国にはネガティブな印象を抱いていた。「インド=汚い」や「インド=治安が悪い」などのイメージがインドへ赴くことを億劫にさせていた。ある時、「呼ばれて行く国インド」というこの映画を観て、私は偏った印象の上でインドを見てしまっていたことに気がついた。画面に映るのは、タージ・マハルのような有名な観光名所などでは無く、混沌とした街並み、貧困、そして素顔のインド人。初めて目にする数々の非日常とも取れる世界を前に、いつの間にか日本の日常とインドの日常を見比べながら、死生観の違いについて考えている自分がいた。

母なる命の源、ガンジス川。上流で取り行われた「水葬」によって川に流された漂流死体を目にして、私は困惑を隠せなかった。日本にはこの様な埋葬文化は無いし、そもそも人々の日々の生活に寄り添う川に遺体や遺骨を流すという行為を、倫理的に受け入れることはとても難しい。更に、このガンジス川の川岸にある「死を待つ人の家」では瀕死状態の人が集まる場所であるにも関わらず医療行為は一切行われず、ただその人の最期を看取るのを目的としている。このような施設はまず日本には存在しないだろう。日本人は死に可能な限り抗おうとするのに対して、インドの人々は何故死に抗うことをせず、命の源とされる場所に還すという考え方が出来るのだろうか?

この問いの答えを「彼らは死を終わりではなく、生の一側面と捉えている」からだとすると、彼らの考え方が腑に落ちる。日本では、誰かが亡くなった時は「天国へ逝く」とか、「安らかな眠りについた」という様な表現をする。死を人生の終わりと捉えることで、死を悲しい出来事として嘆き悲しむ。つまり我々日本人は命を有限なものだと捉えているのである。一方でインドの人々はどうだろうか?彼らは死を「還す」という表現で現わしている。全ての命の源であるガンジスから生まれた者は共生関係を持っており、それぞれ別物として見えたとしても最終的には源に回帰する。命は永遠の循環を繰り返すと考える彼らは、「終わり」を作らない無限の立場を取っていると言えるのではないだろうか。彼らにとっての死とは生の単なる始まりに過ぎないのだろう。朝が来て、黄昏が訪れ、夜となりまた朝が来る様に、彼らの命に対する考え方は自然の摂理に忠実なのである。

そして、この考え方は幸福を追求する生き方をする上でとても重要である。命を始め様々な物事を有限だと考え、失うことに対する恐れを原動力として行動する私たち日本人の中で、実際に自分の思い描いた幸せな生き方ができている人は多くはないだろう。日々の競争によって自分に足りないものを補い現実に対処し続けた結果、精神的に疲れてしまうことだってあるだろう。しかしこの無限の立場を例にとって考えてみれば、本来一つの大きな共生関係で結ばれている我々は競い合い、足りないものを補う必要などどこにも無い。そして全てが満たされているということに気がつければ、不確定な未来に対する不安に煽られること無く今この時に感謝し、ありのままの自分を生きることが出来る。もし我々が、死を生の一面と捉えることで無限の立場を取ることができれば、あらゆる終わりが消えるのと同時にあらゆるわだかまりを捨て去った自分が明らかになり、単純な選択によって幸福を追求出来る生き方を自ら選ぶことができるのではないだろうか。

こういった我々とは異なる死生観や命のサイクルこそが、インド独特のパワーの源だとすれば、終わりを見出さないという考え方一つ持つだけでも自分の人生や視点に大いなる影響を与えることは間違いないだろう。しかし、今の自分はこの映画のほんのワンシーンに感銘を受け、分かったつもりになっているだけなのかもしれない。この映画を通して死生観と命のサイクルについて考える中で、実際にインドに赴いてその場の空気を感じたり、現地の人と触れ合ってインドという国について、ポジティブな面もネガティブな面も全てこの身で体験して知りたいと思うようになっていた。気づけば、いつの間にか私もインドに呼ばれていた。
公開日: 2019年03月10日 18:50