制限なし

【入賞】『絶望の連鎖の檻の中で』

ドキュメンタリー映画感想文コンクール
【入賞】(一般の部) 


『絶望の連鎖の檻の中で』
伊藤 純一 


視聴作品「未来を写した子どもたち」
https://asiandocs.co.jp/con/71?from_category_id=5




映画の早い段階での言葉が全てを表しているように思う。「どんなに貧乏でも幸せにはなれる。受け入れなきゃね。」
 この映画では子供たちと大人たちが対象的に映し出されている。堕落的で感情的でみっともなく汚れて映る大人たち。それとは対象的にしっかりした意見を言い、理性的で純粋なキレイな存在として映る子供たち。しかし、この汚れた大人とキレイな子供という対比はいつまで続くのだろうか。かつてはこの汚れた大人たちも純粋な子供たちであったはず。この映画に登場する子供たちの様に、裁縫や写真を仕事にして家族を養いたいとか、医者になりたいとか、ここから出て別の暮らしをしたいと思っていたのでないだろうか。しかし「受け入れなきゃね。」と受け入れこの地獄を生きていくしかないと諦め、「どんなに貧乏でも幸せにはなれる。」と自分に言い聞かせても現実に向き合っているうちに微かな希望も薄れていってしまうのではないだろか。
 明るい希望を失い、生きること自体しかが生きていく目的が無くなってしまう。そして身体を売り、やがて出来た自分の子供も生きるためだけに売ったり、売春させたりする最悪の連鎖が続いていく。その連鎖にまたキレイな子供たちが汚されていく。
 動物園へ子供たちが行くシーンが描かれている。子供たちの状況を示唆するようなシーンであった。動物園に着く前は無邪気に日本の子供たちが遠足にいくような楽しげなシーンだけれども、動物園に着いてからの場面は檻の中に閉じ込められた動物たち。  ゴウルという少年の言葉が悲しくなる。「オリの中に閉じ込められて一日一回だけの食事。そして象はゴミ袋を食べてしまう。体に悪いのにね。」 
まるで自分たちの未来をそして現状を表している様な言葉に感じる。抜け出すことの出来ない現実のオリの中で、自分に対して、家族に対して、子供にも、そして周囲にも良くないこと、悪いことでも生きるためにそうせざるを得ない現実。
ゴウル少年も自分の未来を感じたのではないのか、将来の希望や夢を語りつつもどうしようないオリの中でゴミ袋を食べてしまう象に対して。 
 子供たちは海に行き現実から開放されて無邪気に写真を撮りながらはしゃぐ。何の縛りもないただただ広く無限に拡がった海の前で遊ぶ。確かにこの世の中には現状とは違う自由で広大な場所がある様に思える。中途半端な希望も絶望もいらない場所。
しかし、夜になればバスに乗り、また現実の負の連鎖のオリの中に引き戻されていく。
写真家のザナは子供たち汚れてしまう前に救い出そうと奔走する。こんな汚い大人たちに囲まれた状況でも、酷いことを言われてもママだからと許せるといい、妹を養うために頑張るといる優しくキレイな子供たちが汚れてしまう前に。
でも(自由な)先進国の一員のザナ彼女もまた違ったオリの中でもがいている。どんなに奔走しても彼女もまた社会のオリの中でもがくしかない。
 どうやら映画に出てくるザナの支援した子供たち八人くらいの中、学校教育を続けられて子供は一人だけの様だ。写真や教育がここではない自由な海の様な所へと行く希望のパスポートのはずでその可能性はあるはずだけれども、現実はオリの中でのもがきでしかないのか。
 自分はこの子供たち比べたら素晴らしく恵まれた環境でこの映画を見ている。今の日本では希望を持ち諦めなければ夢が叶うと教えられる。しかし、こういうドキュメンタリーを観て思うのは、それは世界の現状から目を背けているから言えることではないのかと思ってしまう。では、諦めるしかないのか?しかし自分自身も世界の中の、社会の中の当事者である。ザナは隣りにいる子供を救いたいと行動した。自分はインドの子供たちを救うことは出来ない。でも自分の隣にいる人を幸せにしたいと思い行動することはできるはずだ。
社会の中の当事者の一員として隣の「あなた」を幸せにしたいという思いが、「あなた」が幸せである社会であって欲しいと徐々に拡がっていき、やがてこの映画の中の子供たちが幸せに生きられる社会になればと思う。ザナが隣の子供を幸せにしたいと思い行動した様に、自分も隣の人を幸せに出来るような人間になりたい。それがやがてこの絶望のオリに小さな穴を開けることが出来ると信じて。
公開日: 2019年03月10日 18:45