特集「暴走する映像」(全3本)

◆ドキュメンタリーが内包する作り手の意思
フィクションはもちろんのこと、ドキュメンタリーや報道でさえ、そこには発信する側の意図が存在します。起きている事実から、作者や記者が「伝えたい」と感じたものを切り取って、あるいは拡大したり掘り下げたりして一つのメディアとして発信しています。公正さを標榜するマスメディアの発信でさえ、自社のスタンスや取材対象の意図が介在する可能性を否定できません。映像は虚実の間をさまよい、ときに我々を混乱に陥れます。事実をベースにしていても、発信者の思惑がどこにあるのかを感じることで、我々はより深みのある考察を得ることができるのではないでしょうか。
 
◆真実を読み解く力とリテラシー
思惑は発信者だけでなく、情報の受け手にも存在します。観たい映像、知りたい情報だけを得たいという欲求が、反対の立場の意見や事実から自身を遠ざけてしまいます。ソーシャルメディアの普及により、反対意見に触れることを脅威に感じる人が増えました。米国のシンクタンク、ブルッキングス研究所が全米の大学生を対象に行った調査では、自分と意見が異なる講演者を怒鳴って黙らせる行為を「許容できる」と答えた人の数が、半数以上に達しています。「認めたくない」「不都合な」事実に直面したときこそ、ニュートラルな視点が求められています。
 
◆失われつつあるネットとリアルの境界
ネット社会の成熟と共に、為政者や特定のメディアが情報をコントロールしづらくなり、個の発信力で社会を動かせる時代が到来しました。コミュニケーションも商取引もオンラインで可能となり、仮想空間でのマーケットは拡大しています。しかし新たなビジネスが誕生しても、変わらないのは経済の論理。潤沢な資金を動かせる者にしか、莫大な利益を上げるチャンスがないのは、これまでの資本主義社会と変わりません。夢を追う者は資本家の掌で踊っているだけなのか、インターネットの伸びしろが未来の社会構造を変えていくのか、今がまさに分岐点なのかもしれません。

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